節分の豆まき
恵方巻を食べるイベントとなった節分の日。
京都には、まだ鬼がいる。
東京での節分といえば、成田山新勝寺や浅草の浅草寺、芝の増上寺、川崎の川崎大師が有名で、テレビ中継され、俳優や芸能人、力士が舞台に立ち、豆をまくイメージでした。
とくに浅草寺は「鬼はいない」として「千秋万歳 福は内」という掛け声とか。

けれど京都の節分は、違います。
ここには、今も「鬼」がいて、退散させられるために現れます。

笑いながら退散する鬼ではありません。
本気で現れ、本気で祓われていく鬼がそこにいました。
鬼の出現
京都ではいろいろな神社仏閣で鬼が現れるようです。
そのなかで、平安神宮の節分では、鬼は本殿に姿を現します。
ゆっくりと、しかし確かな存在感をまとって登場します。
鬼の舞として見せ場の時間も、もらえます。この舞が、疫病や災難の悲惨さを表しているのでしょう。

豆をまく
踊り終えると、豆まきが始まります。議員さんや名士さんでしょうか。本殿にいる鬼に豆を投げます。
豆は容赦なく、鬼にぶつけられます。
きっと豆をまく議員さんたちは、「本気で豆をぶつけてくださいね。そうじゃないと鬼は退散できないですからね」と依頼されているのでしょう。
豆は放物線を描くようにふんわり放り投げるのではなく、鬼に向かって剛速球とまではいかなくても、一直線にそこそこの強さでぶつけられます。

しかし、平安神宮は広い。本殿から応天門まではかなりの距離があります。最初は、はりきっていても、だんだんとしんどくなり、豆を投げる力も弱まります。
疫病などの訳のわからない難敵やいつも想定外の天災に立ち向かうのに、豆をぶつけるくらいしかできない自分たちの非力さにうなだれながらも、それでもどれだけの効果があるのかわからない豆をぶつけるしかないやるせなさがにじみます。
逃げる鬼
それでも、豆をぶつけられる鬼は、たまったものではありません。しかし、京都の鬼は、すごい。追われるものの役割を真剣に全うします。

家庭の豆まきのように、「おいおいそのくらいで勘弁してくれよー」と、笑いながら照れながら降参して、玄関のドアを閉めて、「はい、終了」と役目を終える、家族思いのやさしい鬼役のおとうさんとまったく違って、真剣そのもの。
議員さん達のまく豆を、ときに顔面で受け、ときに全身にあび、ときに抗います。しかし、非力だけれどもその小さな豆粒を受けるたびに、少しずつ災いの力を削がれていきます。そして、ついには、応天門まで追い込まれます。

夢の国や魔法の国に住んでいるねずみやねこのスタイリッシュさと比べると、どこか泥臭さを感じますが、その動き、一挙手一投足が人が忌み嫌うことを表すようにぎこちなく、あまりの動きのはげしさに息を切らすこともありますが、最後までやりきります。
まるで災いや厄そのもの。
その姿に壮絶さを見ます。
応天門の方にかなり追いやったと少しの安堵もつかの間。鬼が引き返してきます。まるで一度去ったと思った災難が、落ち着いたと思った矢先、ぶり返す。そんな状況を彷彿とさせます。しかも前よりも勢力をまして。

真剣に取り組む姿のフィールドへ、最後まで入ることはありません。
あくまでも鬼が追い払われている一部始終を傍観者のように眺めているだけで、没入感はまったくありませんが、それが反対に、不思議なことに、自分のなかの厄介事や、もやもや、言葉にできない不安をすーと連れて行ってくれます。
京都の鬼、恐るべしです。

やがて鬼たちは応天門の外へと追い払われます。
一度立ち止まるように見えるのですが、その姿が、捨て台詞をはいているように見えました。
ここで、豆まきは終わります。
追い払うということ
鬼を外へ追い払っても、やり遂げた達成感や清涼感はありません。そこにあるのはただの日常。マイナスをやっとゼロにまで戻しただけのしんどい作業。
ボタンひとつでゼロに戻せるデバイスのリセットとは違う、やっかいな作業。そのために私は聞いたことがなかった言葉、「追儺式(ついなしき)」や「鬼遣(おにやらい)」があるのでしょう。
災いはあきもせず毎年やって来ます。クマが襲ってきたり、豪雪に悩まされたり。自分のなかの厄介事が起こったり。
時期を変え、姿を変えて襲ってきます。
降りかからないようにバリアをはりたいところですが、それでもやってきます。
だから、それらと、どう向かい合うのか。
そのことを鬼に教えられた気がします。
京都が知恵を授けてくれます。

京都の節分は2月3日だけではありません。前夜祭としていろいろな神社仏閣で2日からにぎわいます。来るときは2日からが、いいですよ
【アクセス】
・平安神宮(京都市左京区)
訪れるとしたらこの辺

